煉瓦の壁の向こう、堅牢な造りの扉の先に広がる光景に息を飲んだ。
そこは薔薇園だった。初夏の季節にふさわしく、大輪の花達が美を誇る。
その花弁の色は、蒼。
世に存在する筈のない蒼い薔薇が咲いている。
「僕の母は、樹木の育成を生業としている家に生まれた。母の技術は顕著で、花は美しく、木々はたくましく、農作物は実り豊かに育てることが出来た。その才を望まれて、彼女は王宮に召し上げられた。特に喜ばれたものがこの葡萄酒だ」
少年は、語る合間に封を切った瓶の中身を、塔から持ち出したグラスに注ぐ。そして、「味は保障する」と言って娘に差し出した。
「綺麗……」
受け取ったグラスを陽に翳す。
白葡萄酒らしいが、えもいわれぬ黄金色に輝くそれは、見るからに特別な物に思われた。
そっと口に含むと、華やかな芳香が広がる。
甘い。
香気は確かに酒のそれであるのに、ふわりと絡む甘さはまるで蜜のようだった。
「貴腐葡萄酒と言うんだよ」
「名前は聞いたことがあるわ。これがそうなのね」
娘は感嘆の吐息を漏らした。
高貴なる腐敗。
菌に侵され爛れた果実だけが孕みうる極上の甘露。
それは本来、恣意によって生み出せるようなものではない。
必然的に貴腐酒の稀少価値は高く、王侯貴族と言えどもおいそれとは手に入れることはできないのだ。
奢侈を極めた黄の王都においても、味わう機会は滅多にあるまい。
そんな代物を、城の裏庭で子供が無造作に差し、同じく子供である自分が気軽に受け取って口にしているとは。
娘は軽い目眩を感じた。酒精のせいだけではないだろう。
「母は自在に貴腐を降ろした。神の御手を持つ娘と呼ばれていた。神から才能を賜った人間にふさわしく、とても美しい娘だったらしい……王の目にとまるのに、そう時間はかからなかった」
そうして、僕が産まれたんだ。
言葉と共に、彼は仮面を外した。
冬の空のような、澄んだ蒼を宿す双眸が、娘の紅い瞳を捉える。
またしても目眩。酔っているのだろうか。
「『恩寵』……」
娘の呟きに、彼は頷いた。
『黄』、『緑』、そして『青』。同じ神を崇める三つの国々において、その国の冠する色を持って産まれた人間は、神の祝福を受けたものとされる。
特に、髪と瞳の両方に貴色を宿す人間は。
「僕は神の庭の外で産まれた。正式な結婚によらず、母は寵姫ですらなく。司祭の洗礼も受けていない僕は、本来存在する筈のない人間なんだ。ただ偶然『恩寵』を持って産まれたために、城から追放する訳にはいかなかった。殺せば神の怒りに触れる。捨てれば拾われた先で身元を詮索される」
手にしたグラスの中で貴腐酒を揺らしながら、廃嫡の王子は娘に向かって歩を進めた。
「母は王宮の片隅に館を与えられ、訪れることのない男を待ち続けた。男が戯れに好きだと言ったスズランの花を館の周り一面に植えて。純粋で無垢な人だった。そしていつまで待っても王がやって来ないことを嘆き悲しんだ彼女は、一つの結論に達した。野のスズランを省みて貰うには、彼の人の周りで咲く大輪の花々を枯らしてしまえばいい、と」
風がざわりと肌を撫でた。
自分は今、途方もない告白を聞いている。
その自覚はあった。しかし何故か、現実感が伴わない。
夢の中でおとぎ話に耳を傾けている気分だった。
「彼女は植物のことを知り尽くしていた。何が薬で、何が毒かもね。母は王の寵姫を次々に殺した。何人も、何人も。そして最後は王の正妻まで手にかけようとしたんだ」
けれど失敗した。
言葉とともに、少年はワイングラスを逆さにした。
彼が口にしないままの貴腐酒が、地面に滴り落ち、下生えに吸い込まれて消える。
「母はお后の近従によって処刑され、僕も同じ道を辿る筈だった。生き長らえた理由がこの蒼薔薇だよ。幻の花。青の王家の象徴。黄金にも勝る宝」
謳うように、嘲るように……一体何を。
罪か。それとも彼自身か。
「彼らは僕を殺さなかった。手懐けて無限に蒼薔薇を作らせようとした。お后がやって来て言ったよ。『私を母とお思いなさい。そして母にふさわしいものを捧げなさい』」
過去を語る唇が歪んだ。
笑みの形に。
「僕は言われた通りにした。母にあげようと考えていた物があったから、ちょうど良かったんだ。館を覆う程咲いたスズランを残らずむしって、すりつぶして、しぼって……いっしょうけんめい」
含み笑い。耳元に届いたそれが、娘の頭の芯をふらつかせた。
酩酊の背中を押すように、彼の声が忍び込む。
「お后も死んだよ。スズランの毒で。僕が差し上げた貴腐葡萄酒で」
今、君が飲んだこのお酒でね。
蒼い瞳がとろりと微笑った。
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