『青』と『緑』には、成人するまで仮面で顔を隠す風習があることは知っていた。庶民の間ではだいぶ廃れているらしいが、そうすると彼は貴人の血に連なる存在なのだろうか。確かに、少年の身のこなしは育ちの良さを伺わせた。
彼がどこの誰であろうと大した問題ではない。ただ一緒にいるのが楽しい、それだけだ。
少年は庭に生えている草花のうち、どれが毒でどれが薬かを教えてくれた。
書庫代わりだという塔に招いて、一夏全て使っても読み切れない程の本を見せてくれた。
娘に読めない『青』の古語を丁寧に教えてくれた。
そして、娘が自分の身の回りのことを話すと、楽しそうに笑ってくれた。
嬉しかった。だからこの城に残ったのだ。
少年はとても優しいのに、彼が纏う空気が張りつめる時がある。
近寄りがたいようにも、決して一人にしてはおけないようにも感じて、ただ横顔を見つめるしかできない。そんな一瞬が。
「……そうね、私もだいぶ『お悪い』もの」
できるだけおどけた口調になるよう心がけて言うと、少年は空気を和らげて応じてくれる。
「父君の視察に同行できないくらい?」
「『赤獅子伯』を絶句させるくらい」内心で安堵しながら娘は続けた。「このお城にいるって言ったら、父は無言のまま目を見開いて、手を私の額に当てたわ。熱があるとでも思ったんでしょうね」
「当代随一の英雄を絶句させるなんて凄いじゃないか」
「あら、昔はもっと絶句の頻度が高かったのよ。木登りしていて足を滑らせたりだとか、屋敷のバルコニーの手すりの上を、壁の端から端まで歩いて見せたりだとか。剣の稽古中に足を挫いたこともあったわ。3本勝負の1本目に捻って、全部終わるまで我慢したの。そうしたら踝が腫れ上がって、靴を鋏で切り裂く羽目になったんだけど」
「……言葉を失うよ」
「父も同じことを言ったわ。でも後で褒めてくれた。私が最後まで剣を放さなかったから」
ふふ、と当時のことを思い出して笑うと、少年は肩を竦めて苦笑した。
「君は変わってる」
「お褒めに預かり光栄の至り。でも貴方も相当変わってるわ。14歳にもなる貴族の娘が乗馬服を普段着にしていても驚かないなんて」
「黄の国の人々は驚く?」
「揃って顔を顰めるわ」
「じゃあ、黄の国には遠駆けに行ったり剣の練習をしたりする相手はいないの」
残念ながら、と娘は答えた。
遠駆けには一人で行くし、剣術の相手は城の兵士。彼らは大人で流石に太刀打ちできないし、仕事があるのだから娘に付き合わせてばかりもいられない。
加えて、娘と同じ年頃の貴族の子女にとっては馬術も剣術も嗜みでしかない。
社交界を夢見る乙女達は、馬は乗っても片鞍乗り、手綱は召使いに引かせるものだと思っている。少年達ですら、手に肉刺をつくって剣の腕を磨くよりも、酒や葉巻の味を覚えることの方が魅力的だと考えているのだ。
醜聞には群がっても、政には興味がない。金儲けには躍起になるが、経済を学ぶなど面倒だしつまらない。
黄の都は、そういった『高貴な』人々で溢れていた。
思い出すと溜息が出る。間違いなく、娘は変わり者だった。
「僕にはそちらの方がよほど驚きだよ」
静かな声で少年が言う。娘の生き方をそっと肯定するように。
「君と石切をして遊ぶ楽しさを知らないなんて、可哀相だ」
そう思わない?
笑みと共に石を手渡された。平たい、良い石だった。風でも水でも、鬱屈した気分でも切り裂けそうだった。
「貴方の言う通りだわ。私の石切の腕前を知らないなんて、可哀相な人達!」
弾けるように笑い、娘は思い切り腕を振った。
河面に水飛沫が5つ。
石は対岸まで跳ね、砂利とぶつかって楽しげな音を響かせた。
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