銀製のトレイを持って階段を駆け上がる。通常の建物ならば6階分にも相当するであろう高さまで一息に。
扉の前で大きく深呼吸しながら、普段から走り慣れていて良かったと娘は思った。石造りの塔の内部はひんやりとしていたが、あまりに時間がかかっては中身が台無しになってしまう。
トレイを片手に持ち替えノックしようとした瞬間、扉が開いた。
部屋の主が開けてくれたのだ。
「良くわかったわね」
「足音が聞こえたから。どこに行ったのかと思ったよ。寝床がこれじゃ、客間に帰られても不思議はないし」
少年はそう言いながら、本と巻物だらけの部屋の一角を指さす。
そこには窓と、すぐ下に無骨な造りの長椅子があり、申し訳程度にクッションと毛布が置いてあった。普段は彼が仮眠用に使っているらしい。
昨晩は娘がそこを使い、少年はその脇の床に座ったまま眠った。
正確には、窓辺に置いたランプの明かりで夜通し本を読んでいた。明け方近くに
は二人とも寝入ってしまったのだが。
「でも、貴方が起きてて良かった。でなきゃ叩き起こすところよ」
「乱暴だなぁ」
「叩き起こされるだけの価値はあると思うわ」
はい、と手に持っていたトレイを差し出す。
首を傾げた少年が掛けられていたナプキンを取り去ると、ガラスの器に盛られた氷菓が姿を現した。
「ジェラート。好きでしょう?」
「……その話、したかな」
娘は答えなかった。長椅子に座り、ジェラートを口に運んで「美味しい」と笑う。
少年はあえて問い詰めず、机の上に散らばる羊皮紙をざっとまとめ、そうして出来た空間に腰掛けた。
「今日は何をして遊ぶ?」
「そうね……人が増えてきたから、あまり外を駆け回ることも出来ないのよね。遠駆けも魚釣りも駄目だし、剣の練習は論外だし」
先日以来の馬車の行列が運んできたのは荷物だけではなかった。『緑の姫巫女』と、彼女が住まう瀟洒な別館を切り盛りするための召使いまでが大勢やって来たのだ。
彼らは夏が終われば『緑』へと帰還し、姫巫女の滞在時の様子を教会へと報告するだろう。
そんな人間達の目があっては、流石の『紅薔薇』もそう奔放な咲き方をする訳にはいかない。
「いっそ『緑の姫巫女』に会いに行ってみましょうか。お友達になれるかもしれないわ」
一人より二人、二人より三人。そんな単純な考えから口にした言葉だった。昨日までと同じく、彼もすぐに賛成してくれる、と。
しかし少年は首を横に振り、「それはよそう」と言った。
「どうして? 私だって大人達の目の前ではしゃぎ回ったりしないわよ? ほら、今日は服装だって大人しいでしょ」
確認するように服の裾を摘んでみせる。
娘は二人が初めて出会った時と同じドレスを着ていた。氷菓子を取りに行く前に、あてがわれた客室に戻って着替えたのだ。
机上に座る彼も、そうくだけた格好はしていない。このまま連れだってでかけても不都合はない筈だ。
だが、彼は頷かない。どこか焦ったように、二人でいようと言う。
食べ終わった器を置き、顔を背けながら。
「大人しくしているなら君と二人がいい。他の人間はいらないよ。本はまだ沢山ある。チェスをするのもいいな」
まただ。
何度か目にした、張りつめた彼の様子に、娘はその腕にそっと手を置いた。
あの茶会の日、娘と同じ年頃の子供がいないかと訊ねた時の大人達の態度を思い出す。彼らは後ろめたそうに口籠もっていた。
姿を現した少年に対して『青』の国王は鷹揚に頷いていたが、それは親しみからではなく、軽んじているように見えた。
『青』の人間は、誰も彼に話しかけなかった---まるでそこにいないかのように。
少年にとって、人前に出ることは辛いことなのかもしれない。
「無理にとは言わないわ。私一人で行っても構わないし……っ!」
「駄目だ!」
添えていた手を逆に掴まれる。
娘は驚き、間近にある彼の顔を見つめた。
仮面の影になっていて瞳は見えない。だが、奥で朧気な光が揺れていた。その光がふと翳り、彼が目を伏せたことを知る。
掴まれた両腕を通して震えが伝わる。
いかないでと彼は言った。
「どうしたの」
仮面に覆われていない頬に指で触れる。掌で包む。強張りを解くように。
少年は大きく息を吐いた。昂ぶる感情を鎮めようとしているのがわかる溜息だった。
いかないで、ほしい。彼はそう繰り返した。
「わかったわ。どこにも行かない」
「……理由を訊かないの」
「貴方で十分」
貴方がそう望んでいるというだけで十分。
穏やかな声で語りかけ、彼を見つめた。仮面の向こうの光が現れるのを辛抱強く待つ。
事情は知らない。探る気も無い。けれど、わかることが一つ。
目の前の少年は、伸ばした手を振り払われることに慣れている。
娘はその手を取りたいと思った。
自分より少し背が高い彼の、青い髪を優しく梳く。震えが治まるまで。
やがて顔を上げた彼は、おずおずと手を離した。強く掴んでしまったことを詫びるように何度かさすって。
娘は首を振り、彼の手を包むように握る。彼は握り返す。
「僕のことを話すよ」
静かな声がそう告げた。
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